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2004年 10月 13日
※この記事は、クリエイティブ・コモンズのルールに基づいて、The Original Macintoshの記事を翻訳したものです。翻訳された本記事も、自由に複製、頒布、展示、実演することができます。ただし、原著作者を明示することが必要で、営利目的の利用はできません。詳しくはhttp://creativecommons.org/。 この記事の原著作者はAndy Hertzfeld氏。オリジナルはhttp://folklore.org/にあります。 1984年1月24日。ついにこの日がやってきた。1984年のアップルの株主総会でマッキントッシュがそのベールを脱ぐという、今まで経験したことがないほど待ち望んだ日がやってきたのだ。もちろん私たちは感激していたが、同時に急造のデモソフトに不安を抱えていたし、システムを完成させることで疲れきってもいた。 週末行われたリハーサルで、デモのセットアップを手伝うために出席したが、それは問題だらけだった。アップルはLightValveという強力なビデオプロジェクターを用意していた。それはマックの画面を想像以上に大きく、明るく映し出してくれるものだった。マックの独特なビデオ信号のタイミングを補正する特殊なボードをバレルが作り、このボードにLightValveは接続されていたのだが、LightValveはまったく気まぐれで、起動に永遠とも思える時間がかかったり、不可解なことに突然落ちてしまうこともあった。その上、スティーブはこのリハーサルにまったく顔を出さず、一度も通してのリハーサルができなかったのだ。 ソフトウェアチームは午前10時にならないと出社しないのが常だったが、この日だけはバンドレー3号館の金魚鉢のようなオフィスに7時半には全員が集まっていた。そこから半マイルほど離れたフリント・センターの講堂までみんなで歩いていった。講堂にはだいぶ早くついたのだが、すでに満席で(2500席ある)、すぐに寿司づめ状態となり、立ち見の人で満杯になってしまった。ソフトウェアチームは、マック部門のスタッフ用に用意された2列目に固まって座った。 そして、照明が落とされ、スティーブ・ジョブズがステージの左側から現れ、演台に歩み寄った。派手な蝶ネクタイにぴったりとあった上質の仕立ての黒いスーツ姿で、コンピューター企業の取締役というよりは、ラスベガスの興行主のような格好だった。わき起こる拍手を神経質そうに制して、それから口を開いた。 「1984年、アップル株主総会にようこそ。ディランの昔の詩の一部を朗読させていただきます。ボブ・ディランの詩です」。スティーブはにっこりと笑って、ボブ・ディランの「時代は変わる」の2番を母音をときどき伸ばすディランスタイルで暗唱し始めた。 「ペンで予言をする作家と批評家のみなさん 目を大きく見開いて 機会は二度と巡ってこないかもしれないから 口は閉じておいて 車輪はまだ回り続けているかもしれないから その名前はまだいわないで 敗北の最中にあっても、いつか勝利するかもしれないから 時代は変わるのだから」 そして、アップルの役員ひとりひとりの名前を挙げて、つらい時期を支えてくれたことに感謝の意を示し、主席顧問アル・アイゼンシュタットの方を向き、株主総会の進行を促した。アルはいくつかの式次第を進行させ、そして9ヶ月前に就任したばかりのCEOジョン・スカリーを紹介し、決算報告を求めた。 ジョンは、アップルの直近四半期の報告を行った。Lisaの売り上げは予想を下回ったが、Apple IIeのクリスマス時期の売り上げが昨年同時期の2倍になって、全体としてはバランスが取れたものになったと報告した。しかし、聴衆は退屈そうに聞いていて、目の前に迫ったメインイベントが待ちきれない様子だった。ジョンもその空気を察したようで、報告の大半を手短にすませた。そして、マイク・マークラに感謝の意を示し、アップルの最初の数ヶ月を支えてくれた役員に感謝の意を示し、そして特にある人物に感謝の言葉を述べた。 「アップルでのこの9ヶ月の間に、私の身に起こったもっとも重要なことは、スティーブ・ジョブズとの親交を深めることができたことです。スティーブはアップルの共同創立者であり、この業界の予言者でもあります。スティーブ・ジョブズをみなさんにご紹介できることは私にとっても光栄です」。 スティーブがステージの左側から再び現れると、また照明が落とされた。「1958年…」スティーブはゆっくりとおごそかに口を開いた。「IBMは、セログラフィーという新しいテクノロジーを発明した若い会社を買収するチャンスを逃しました。2年後、ゼロックスが誕生し、それ以来IBMはかやの外だったのです」。スティーブがここで言葉を切ると、聴衆の中から笑い声が起きた。 この話は、昨年秋のハワイで行われたセールス会議で、1984のCMを紹介するときに使ったものだ。それ以降も、何度かこの話をするスティーブを見たが、このときほど感情が込められていて、熱が入り、声に力がこもっていたことはない。 「その10年後の60年代後半…」。少し早口になって続けた。「デジタル・イクイップメントなどがミニ・コンピューターを発明しました。IBMは、本格的な計算業務には小さすぎるので、自分たちのビジネスにとって重要なものではないとみくびってしまいました。DECは、IBMがミニコン市場に参入するころには、数億ドル規模の企業に成長していたのです」。スティーブは再び言葉を切った。 「その10年後の70年代後半…。1977年、西海岸の若い企業アップル・コンピューターが初のパーソナルコンピューターApple IIを発表しました。IBMは、本格的な計算業務には小さすぎるので、自分たちのビジネスにとって重要なものではないとみくびってしまいました」。スティーブが皮肉たっぷりに語ると、聴衆は喝采した。 「1980年代始め。1981年、Apple IIは世界で最も売れたコンピューターとなり、アップルは3億ドル企業となりました。これほどの急成長は、アメリカのビジネス史上かつてありません。50以上もの企業がひしめくこのパソコン市場に、1981年11月、IBMはIBM PCで参入してきました」。話し方に勢いがついて、たいへん早口になった。 「1983年。IBMとアップルは、パソコンをそれぞれ10億ドル売り上げる二強となりました。しかし、その反動は小さなものではありません。最初のパソコンメーカーが破産をし、他の企業も風前の灯となったのです。1983年にこの業界が失った利益は、アップルとIBMの利益とほぼ同じだったのです」。 話すスピードを緩め、声に力をこめていった。「今は1984年です。IBMはすべてを根こそぎもっていこうとしています。そして、そのお金をもって一目散に逃げてしまうのではないかと私たちは疑い始めたのです。当初はもろ手を挙げてIBMを歓迎していた販売店も、今では将来をIBMに支配され管理されることを恐れ、自由を確保する唯一の手としてアップルに戻り始めているのです」。 スティーブがここで長い間をおくと、聴衆は満面の笑みとなった。聴衆に膝を乗り出させることに成功したのだ。「すべてを手に入れたがっているIBMは、最後の障害に銃の狙いをつけました。アップルです。ビッグ・ブルーがコンピューター産業のすべてを支配してしまうのでしょうか。情報時代を支配するのでしょうか。ジョージ・オーエルは正しかったのでしょうか」。 2日前のスーパーボールで、最初で最後の1984のCMを見ていた聴衆は熱狂した。若く美しい女性アスリートが、近未来的なスキンヘッドたちの集会に乗り込み、世紀末的な光に彩られたスクリーン上のビッグブラザーにハンマーを投げつけるというものだ。CMの放映が終わったスタジアムでは、全員が立ち上がって喝采した。 スティーブは、マックをApple II、IBM PCに続く3番目の重要な製品だといった。「私たちの中には、もう2年以上マックで仕事をしている人がいますが、とてつもなく素晴らしい製品だということがわかったというのです」。 話が続く間、マックはステージ中央近くに、キャンバス地のキャリングケースに入れられたまま置かれていた。スティーブはバッグに歩み寄り、開け、初めてマックを外の世界に出した。持ち上げ、プラグを差し込み、フロッピーを入れ、デモをスタートさせた。マックは内気な声で自分自身を紹介する最初のコンピューターとなった。 「ハロー。私はマッキントッシュです。バッグの外に出してくれてありがとう。 人前で話すことには慣れていないので、初めてIBMのメインフレームに出会ったときにできた格言を紹介させてくださいーー自分で持ち上げられないようなコンピューターは信用するな!です。 私はしゃべることができますが、そろそろ私も座って聞く側に回りたいと思います。私にとっては父にも等しい彼を紹介できるのは、この上なく光栄です。ーースティーブ・ジョブズ!」。 デモが終わると、会場は熱狂に包まれた。スティーブは今まで見たことのない最高の笑顔になり、感極まって彼は明らかに涙をこらえていた。スティーブが聴衆を鎮めるまで、喝采は少なくとも5分以上は続いた。 その後、スティーブはマーケティング素材やLisaの新型を駆け足で紹介したが、ほとんど記憶が薄れてしまっている。そして、マック開発チームをたたえたビデオを上映し、そこには何人かの重要な協力者からのメッセージも寄せられていた。そして、司会をアル・アイゼンシュタットに戻し、株式決算を報告させ、株主総会の議事進行に戻した。 出席者は全員に、スティーブが表紙になったMacWorld誌創刊号がプレゼントされ、帰宅の途についた。マック開発チームはほとんどがステージのあたりに残って、聴衆がいなくなるまで互いに喜びを分かち合っていた。 その後、しばらくして、バンドレー3号館に戻ってみると、驚いたことにビル裏手の駐車場に大きなアップルのトラックが止まっていた。中には新品のマックが100台積まれていて、それぞれの名前がプレートに刻まれていた。スティーブは一人一人に握手をしながらマックを手渡しし、私たちの中でにこにこしていた。 午後には通常業務に戻されたのにはびっくりしたが、だれも家には帰りたくない気分だった。マックはもうその日には販売開始になっていたのだ。出かけてマックを自分で買った方が実感がわくと思って、私たちは5、6人で連れ立って近くの販売店に歩いていき、ほんとうに買えるかどうか確かめにいった。いちばん近い販売店では、在庫がまだ入ってなく売れないと断れてしまった。あきらめずに次の販売店に行ってみると、そこも在庫はまだ入ってなかったが、私に1台売りつけようとしたのだ。 2004年 10月 10日
最近、ドライヤーや空気清浄機でおなじみになったマイナスイオン。この発見は意外に古く、19世紀末のことだ。雨粒の生成過程を研究したレナードによって発見された。上空でできた雨粒は落下するときに、空気の抵抗を受けて、扁平になったり、縦長になったりと、激しく変形する。レナードは直径5mm以上の雨粒はこのような変形により割れることを発見した。しかも、大きな粒と小さな粒に割れたとき、大きな粒は+の電荷を帯び、小さな粒はーの電荷を帯びることも発見した。さらに、滝の観察などから、小さな水滴(つまりーに荷電している)が多い場所は、人の気分を爽快にすることも観察した。なぜ、ー荷電粒子が気分を爽快にするかはわかっていないが、このレナード効果は私たちの生活感覚にぴたりと合うものだった。 雨が降り始めたときは、大きな雨粒が重たいので先に降ってくる。雲の中にはーの雨粒が残り、地上には+の雨粒が先に落ちる。雷は、この電荷のアンバランスを解消するための現象だと考えられている。雨の降り始めは+の雨粒ばかり降ってくるので、ほとんどの人が不快な空気を感じるはずだ。ところが、雨がやむころになるとーの雨粒も落ちてくるようになる。夕立がやんだ後は、だれでもすがすがしい気持ちになるはずだ。もちろん、降り始めは地のほこりが舞い上がり、降りやむころには大気中のほこりが洗い流されるということもあるが、雨上がりの気持ちよさはマイナスイオン効果の影響も大きいと考えられているのだ。 2004年 10月 10日
※この記事は、クリエイティブ・コモンズのルールに基づいて、The Original Macintoshの記事を翻訳したものです。翻訳された本記事も、自由に複製、頒布、展示、実演することができます。ただし、原著作者を明示することが必要で、営利目的の利用はできません。詳しくはhttp://creativecommons.org/。 この記事の原著作者はAndy Hertzfeld氏。オリジナルはhttp://folklore.org/にあります。 1984年4月にアップルを退社したあと、最初に製品となった仕事が、マック用の低価格、高画質のスキャナー「サンダースキャン」だった。この製品は、サンダーウェアという小さな会社と協力して開発した。1984年の6月にはこの仕事にかかり、10月にはほぼ完成した。 サンダーウェアの創立者のひとりであるトム・ペトリ(もうひとりの創立者はビクター・ブル。アップルで最初にした熱転写プリンター「サイレンタイプ」の開発を私といっしょにやった仲だ)は、コンピューター専門誌に好意的なレビュー記事を載せてもらうというプロモーションを考えた。1984年10月11日、私とトムは車で、バイト・マガジンの編集部があるヒルズボローに向かった。 バイト誌の記者はジョン・マルコフで、彼はサンフランシスコ・クロニクル紙にも寄稿していて、もっともよくパーソナル・コンピューター業界をレポートしている記者のひとりだ。私がデモの準備をし、スキャンの実演をしている間、トムがサンダースキャンの説明をした。ジョンは、IBM PCでメモを取りながら質問をした。そのPCで動いていたのは、我々マック信者がもっとも軽蔑するキャラクターベースのテキストエディターだった。彼の質問に私が答えているとき、電話が鳴った。 「ちょっと失礼」とジョンはいうと、キーボードのキーをいくつか同時に押した。すると、モニターには瞬間的に別のプログラムが現れた。一、二分電話で話している間、ときどきタイプしながら、電話が終わると再びキーをいくつか同時に押すと、サンダースキャンのメモの画面に戻った。 そのことに興味を持って、「なにをしたんです?」と聞いてみた。「どうやって、別のアプリケーションに切り替えるんです?」。 「メモリー・シフト・プログラムを走らせているんですよ。ご存じないですか?」とジョンはいう。「DOSのユーティリティで、複数のアプリケーションをメモリーに常駐させ、素早く切り替えることができるんです。ずいぶん前からいつも使ってますよ」というと、スイッチコマンドを立て続けに入力して、その素早い切り替えぶりを見せてくれた。 「マックでも同じことができますよ」と、私は考える前に口を滑らせてしまった。 初代マッキントッシュの4倍のメモリーを搭載したマッキントッシュ512Kは数週間前に出荷が始まったばかりだった。512Kマックでは、複数のアプリケーションを同時に走らせたいと努力していたが、メモリー・コンフリクトとCPUパワーの問題に頭を悩ませていた。でも、ジョンのPCでメモリー・シフトを見た今、うまい解決法を思いついてしまった。マックに組み込むのもそう難しくないように思えた。 「それは素晴らしいですね」とジョンはいった。サンダースキャンのデモに戻ったが、それにはとても集中できなかった。なぜなら、アプリケーション切り替えのことで頭がいっぱいになってしまったからだ。難しい問題もあったが、なんとかできそうに思えたし、なによりとても便利な機能だと思った。 トム・ペトリは私が新しい思いつきにとらわれてしまったことに気がつき、帰りの車の中で、優先すべき契約を思い出させ、新しいことに夢中になる前に、できるだけ早くサンダースキャンのアルファ版を完成させることを約束させた。やるべきことは1ダース以上もあったが、それは2週間で終わらせることができそうだった。アルファ版が完成してしまえば、11月末までの正式版リリースまでに少しの時間ができる。 それから2週間、私はサンダースキャンのアルファ版リリースに向けて、仕上げの作業に没頭したが、少しでも暇ができるとアプリケーションスイッチャーの設計のことに頭がいってしまう。もっとも決断しなければならなかったのは、複数のアプリケーションをひとつのヒープにロードするか、それとも別のヒープにそれぞれをロードするかという問題だった。ひとつのヒープにすべてのアプリケーションをロードすれば、フラグが生じずメモリーを有効に使うことができる。私は別々のヒープに分けてロードする方式に決めたが、それが正しいのか自信がなかった。 解決しなければならない細かい問題が山積みになっていた。もっとも難しい問題は、メモリーの先頭のあたりにシステムがたくさんのグローバル変数を置いていることだった。アプリケーションを切り替えるたびに、この変数を入れ替えてやらなければならなかった。難しいのは、入れ替える変数の正確なリストを作ることだった。ほとんどの変数については難しくなかったが、いくつかは困難を極めた。アプリケーションがその変数をどのように参照しているかにもよるからだ。最初の着想が完璧なものではないことはわかっていたが、アプリケーションが動かなくなることを見てからデバッグすれば、次第に問題は解決されていくだろうという確信めいたものもあった。 サンダースキャンの仕上げに取りかかり始めて数日たった頃、ジェフ・ハーバースから面白い電話がかかってきた。ジェフはマイクロソフトのマック用アプリケーションチームのマネージャーだ。彼によれば、マイクロソフトはマックに対して、きわめて戦略的な開発プロジェクトを進行させていて、私がそのプロジェクトを実現するのに理想的な人材だというのだ。電話ではそれ以上のことは語らなかったが、ぜひシアトルに来て、個人的に話し合いたいというのだ。サンダースキャンの仕上げ作業の真っ最中だったが、好奇心から彼の申し出を受けてしまい、次の火曜日にシアトルを訪れることを約束してしまった。 空港でジェフが車で拾ってくれ、そのままマイクロソフト本社に向かった。そこで、ネイル・コンゼンが待っていた。彼は23才で、マイクロソフトのマック担当のメインシステムプログラマーだった。ネイルとは彼がまだ16才のときから知り合いだった。その頃、彼はアップルIIのユーザーで、アセンブリ開発環境にいろいろな機能を付け加える仕事をいっしょにやったのだった。 ジェフは私の今の仕事を尋ね、私はサンダースキャンの話をした。興味を持ってくれたようだった。しかし、今、アプリケーション切り替えユーティリティの開発を試しに始めていることを話すと、ジェフはあごを落とし、私の言葉が信じられないといった顔になった。 「そのことについて話がしたいと思って来てもらったんだよ!」とジェフは叫んだ。「もう始めているとは素晴らしい」。 マイクロソフトでは、マック128Kの小さなメモリーの中で、自社のアプリケーションをうまく動かそうと努力を重ねているところだという。それができれば、他社に差をつけることができる。その最中、マック512Kが彼らの努力を無駄にしてしまった。もっと大きなアプリケーションだって動かせるようになったからだ。さらに、ロータスが「ジャズ」というマック用の統合ソフトを発表していた。異なるソフトを瞬時に切り替えて使うことができる。しかし、マックが複数のソフトを同時に動かすことができるようになれば、マイクロソフトのアプリケーションを小さなメモリーに特化させた作業が再び有利な点となる。少ないメモリーしか使わないということは、それだけいくつものアプリケーションを同時に動かすことができるわけで、ユーザーは自分の好みに応じたアプリケーションを組み合わせて使うこともできるようになる。話し合いの目的は、マイクロソフトとの契約に基づいて、アプリケーションスイッチャーを書いてくれないかということだったのだ。 ネイル・コンゼンはすでに基本的な設計を考えていて、それを目の前のホワイトボードを使って解説してくれた。彼は私が捨てたひとつのヒープを使うという方式を採用していた。でも、メモリーのフラグを最小限にするために、いくつか面白いテクニックを使っていた。私は別々のヒープを利用する方式のことを話し、フラグは生じるがその代わり、安定して動くというメリットがあることを説明した。ひとつのヒープだけを利用する方法はもう少し考えてもらえないかと提案した。 結局、午後にマイクロソフトのCEO、ビル・ゲイツと打ち合わせをすることになった。ジェフは私をビルの部屋に案内すると、話し合いの内容をかいつまんで説明した。そして、取引先との打ち合わせがあるといって恐縮しながら席を去った。マックの開発の最中にビルには何回か会ったことがある。彼のテクノロジーに対する造詣の深さは尊敬するものの、一方で抜け目のないビジネスマンであるという評判には警戒していた。 挨拶のやり取りの後、ビルはマックがマイクロソフトにとっていかに重要であるかを力説し、私の目をのぞきこんでこういった。「君は優秀なプログラマーだろ?間違いない」。 「だといいですね」。ビルが私を褒めちぎる理由を推し量りかねていた。 「そのはずだ。この仕事はどのくらいかかると思う?一月?それとも二月?君ほど優秀なプログラマーだったら二月以内で仕上げられるはずだ」。 「わかりません。完成できるかどうかすら、まだわからない状態です」。 「では、検討してみようか」と、ビルはちょっと親切がましい口調になっていった。「このコードは1万行以内で収まるだろう。そして、君ほど優秀なプログラマーなら、週に1000行は書けるはずだ。つまり、10週間以内に完成させることができる。ま、君がぼくの想像どおりの優秀さを備えていればだけど」。 どう答えていいのかわからず、黙ってビルの次の言葉を待った。 「ところで、優秀なプログラマーはどの程度の報酬を受けるべきだと思う?ここらでは、週給2000ドルというのが相場だ。君はもっと高額を望むのかな?」。 「わかりません」。ようやくビルの意図が読めてきた。私をおだてて、短い時間でアプリケーション・スイッチャーを書き上げられるといわせたいのだ。そうすれば、私に支払う総額を抑えることができる。 「そちらの支払う額としては、週に4000ドルというのが上限でしょう?私には高給すぎますが、それでいきましょう。仕事に10週間かかって、週に4000ドル払うということは、総額で4万ドルになりますね」。 マイクロソフトの思惑を考えれば、4万ドルは決して高額だとは思わなかった。きっとビルは私が値段の交渉をすることを望んでいただろう。でも、このプログラムをマイクロソフトに売り渡すことには消極的だった。なぜなら、このプログラムはMacOSの一部になるはずだったからだ。 「私はこのプログラムを書いてみたいと思っていますが、マイクロソフトとは関係なく仕事をしたいと考えています。ですから、私に報酬を支払う必要はありません。交渉も、仕事のめどがつくまでしたくないんです。そうとううまくやらないと完成できるかどうかもわかりません。もし完成すれば、すべての512Kマックにバンドルすべきだと考えているのです」。 ビルは作戦を変えてきた。「わかった。マイクロソフト製品のユーザーすべてが利用できる形なら、マイクロソフトが所有するかどうかにはこだわらない。ぜひ、最善の努力をして、うちのアプリケーションで確実に動くようにしてもらいたい。困ったことが起きたら、ぜひジェフに相談してほしい。仕事が進んだら、もう一度発売の形について話し合いたいと思うが、どうだろう?」。 快諾をして、マイクロソフトのアプリケーションと最高の相性を実現するように約束をした。マイクロソフトのアプリケーションはほとんどのユーザーにとって重要なものだったので、それは私の望むところでもあったのだ。私たちは握手を交わし、私は大いに満足した。 その夜、パロアルトの自宅に戻るまでの間、少しでも仕事を進めてみたくてどうしようもなかった。サンダースキャンのアルファ版をしあげるのに、まだ数日は必要だったが、アプリケーションスイッチャーのプロタイプを優先することにした。 最終的には、アプリケーションを選択するインタフェースを作らなければならないが、プロトタイプではその必要はない。MacPaintやMacWrite、MacDraw、Finderに対してはうまく動くことがわかっていた。20時間一気にコードを書いたが、その内容はGetNextEventやLaunch、ExitToShellなどの主要なシステムコールをパッチをあてて拡張することだった。もっとも難しかったのは、メモリの先頭付近でスワップさせるものを決めることだった。最初は必ずといっていいほどクラッシュしてしまうが、問題を解決していくたびに安定するようになり、納得のいく仕事ができた。 それから1時間ほど仕事を進めていると、バッド・トリブが帰ってきた。バッドは、1年ほどの中断はあったものの、ワシントン大学の博士課程を終えていた。しかし、博士号を取得するよりも、マッキントッシュの仕事の方が楽しいと考え、数ヶ月前に前職であるソフトウェアマネージャーとしてアップルに戻ってきたところだった。それが1984年の7月のことである。バッドはバレル・スミスの家に間借りしていて、その家は私の家の隣だったのだ。 バッドを連れてきて、MacPaintとMacWrite、MacDrawを素早く切り替えられることを見せた。感心していたようだったが、すぐにあまりにも切り替えが早すぎると文句をいった。 「なんのフィードバックもなしに別にアプリケーションに切り替えられてしまうと混乱するのではないか」という。「間違って切り替えてしまったらどうなる?切り替えたことがわかるアニメーションを使う必要があるんじゃないだろうか」。 素晴らしいアイディアだと思った。そこで、ひとつのアプリケーションが水平にスクロールして消えていき、同時に別のアプリケーションがスクロールして現れることにした。ちょうど回転テーブルの上の料理のようなわかりやすく具体的な心理モデルとなり、望みのアプリケーションを画面に表示させることができる。すぐにスクロールルーチンを書いてみると、アプリケーションを画面上を素早くスクロールさせることができるようになった。 このデモをアップルの友人やユーザーグループに見せたところ、たいへん評判がよかった。残念なことに、サンダースキャンの製品版を仕上げる仕事が残っており、約束した11月末までになんとか終わらせなければならなかった。その後、短い休暇を取った後、12月の始めに今や「スイッチャー」と名付けた仕事にかかり、クリスマスまでにはアプリケーションを選ぶ簡単なインタフェースと、関連するアプリケーションを記憶するスイッチャー書類などの基本構造を仕上げた。 1985年の始め、ガイ・カワサキから電話がかかってきた。彼は、アップルのサードパーティのエバンジェリストの一人で、アップルはスイッチャーの買い取りに興味を持っており、ガイがその交渉を任されたのだという。まず最初に、スティーブ・ジョブズにデモをしてほしいという。 私は少しおののきながらスティーブのオフィスを訪ねた。このスイッチャーはアップルにとって少なくとも25万ドルの価値があると踏んでいたが、同時にスティーブはそんな大金を私に支払いたいとは思わないだろうとも思っていた。でも、私はスイッチャーに自信を持っていたし、スティーブがどう反応するかにも興味があった。 その頃には、おなじみとなったデモをするために、MacWriteとMacPaint、MacDraw、Finderを起動し、スティーブ・キャップスが書いた小さな迷路を生成するプログラムも起動した。最初はスクロールするアニメーションは表示しない設定にした。これは後で見せた方がよりインパクトが与えられるからだ。まず、MacWriteとMacPaint、MacDrawの間でカット&ペーストを行ってみせ、しばらくしてアニメーション効果をオンにして、アプリケーションを切り替えてみせた。 「わかった。もうじゅうぶんだ」スティーブが途中でいった。「素晴らしい。マックにバンドルすることになるだろう。おめでとう」。 しかし、スティーブは押し黙ってしまい、信じられないほど鋭い視線で私をにらみつけた。私を値踏みしているか、おそらく震え上がらそうとしたのだろう。 「でも、君が有利なのが気に入らないな。アップルよりも有利にはさせたくない」。 「どういう意味です?」。まったく不可解な言葉だった。 「君がアップルで働いていたときに知りえた内部情報をまったく使わないでこのプログラムを書き上げたという保証はどこにもない。君がどう思うと、金銭的な要求をする権利はないということだ」。 私は腹をたてた。「このプログラムはまだ途中までしかしあがっていません。報酬がもらえないのなら、仕上げることはできなくなってしまいます」。 スティーブは再び黙り込んで、強く私をにらみつけた。そして、なんの説明もせずに数字だけをいった。 「10万ドル」。 「どうでしょう。私にはもっと価値があるように思えますが」。 「交渉はしたくない。10万ドルは適切だ。それは君もわかっているはずだ」。 どう返していいかわからず、従うしかなかった。スティーブは交渉をするには難しい人間だし、私はスイッチャーをマックにバンドルしてほしいと望んでいた。結局、ガイ・カワサキと最終交渉をし、10万ドルに加えて、もしアップルがスイッチャーを単品で販売した場合は、販売価格の10%をロイヤリティとして支払うということになった。スティーブは単体販売はしないといっていたが、結局は5万ドルが支払われることになった。 スイッチャーの開発自体は難しくなかったが、完成させるのはたいへん難しいプログラムとなった。なぜなら、アプリケーションが動作する前提に関わるものだったので、アプリケーションの動作に影響を与えてしまう可能性があったからだ。開発の後半は、ほとんどがさまざまなアプリケーションとの相性のテストと、クラッシュをデバッグすることに費やされた。いつも、こうして、他の部分に影響を与えないように、さまざまなテクニックを使って問題を収めていくやり方で開発を進めていたのだ。 当然のことながら、スイッチャーを完成させるのにもっとも難しかったのは、マイクロソフトのアプリケーションでもうまく動くようにすることだった。マイクロソフトは古くからのデベロッパーだったので、普通なら尻込みしてしまうような自由な開発方法をとっていた。メモリー節約のために、アプリケーションが疑似コードに変換されていたのだ。これはチャールズ・シモニーが提唱したゼロックスのバイト・コード以来の伝統だ。 この疑似コードのせいで、クラッシュしてもアプリケーションを逆アセンブルすることができず、デバッグ作業を難しいものにしていた。そこで、1ステップに6命令だけ読み込ませて実行し、デバッグするという方法をとったが、これではらちがあかない。そこで、以前にマイクロソフトを訪れたときにした約束に従って、相談してみることにした。 1985年3月に、スイッチャーの初版が完成する前の最後の問題が、アプリケーションをハングさせてしまうことだった。複数のアプリケーションを走らせていて、ひとつのアプリケーションのせいで、すべてがハングしてしまうなどというのはだれだっていやだろう。そこでハングしたときに、起動中のアプリケーションを強制終了させる機能をつけた。特定の組み合わせのキーが押されることを感知するようにしたのである。 ユーザーが間違ってアプリケーションを強制終了しないように、普段使われないキーの組み合わせにしなければならない。結局、シフト+コマンド+オプション+ピリオドという4つのキーの組み合わせにした。間違って押すことはまずあり得ないだろう。しかし、マイクロソフトのジェフ・ハーバーズからの電話に驚かされることになる。 「やあ。強制終了の機能はいいね。でも、キーの組み合わせは変えた方がいいようだ。なぜなら、その組み合わせはWordで使っているからなんだ」という。Wordは私が知る限り、非常に複雑でさまざまなキーボードショートカットを使っている。 「忠告ありがとう。考えてみるよ」とジェフにいった。 ジェフは特定の組み合わせが頭にあったわけではないので、後ほど電話するといった。翌日のジェフからの電話には大笑いした。昨日の忠告は撤回して、やはりシフト+コマンド+オプション+ピリオドを使うべきだというのだ。 「わかった。でもなぜ撤回するの?Wordのキーボードショートカットとかぶらないのかな?」。 「実は、Wordの次バージョンではその組み合わせは使わないことになったんだ。問題はまだ使われていないキーの組み合わせを探すことなんだ。たぶん、もうすべての組み合わせを使いつくしてしまったらしい!」。 1985年4月、スイッチャーの最終版を出荷することができた。その後しばらくは私がバージョンアップを行った。その後は、フィル・ゴールドマンに仕事を引き継いだ。彼はプリンストン出身の有能な若いプログラマーで、最近までアップルでマルチファインダーの開発をエリック・リンゲワルドと共に行っていた。スイッチャーは1987年まで発売され続けた。 2004年 10月 02日
※この記事は、クリエイティブ・コモンズのルールに基づいて、The Original Macintoshの記事を翻訳したものです。翻訳された本記事も、自由に複製、頒布、展示、実演することができます。ただし、原著作者を明示することが必要で、営利目的の利用はできません。詳しくはhttp://creativecommons.org/。 この記事の原著作者はAndy Hertzfeld氏。オリジナルはhttp://folklore.org/にあります。 1981年2月25日の水曜日、社屋の中に一歩足を踏み入れたときからなにか嫌な予感がしていた。ありふれたオフィスの騒音はなく、静かに悲しみだけが漂っていたのだ。みんな席から離れて、あちこちで寄り集まっていた。仕事部屋が近いダン・デンマンのところに走っていき、なにが起こったのか尋ねてみた。 「聞いてないのか?スコッティがアップルIIの半分近い技術者を今朝解雇したんだ。9時頃から一人ずつ呼び出して、解雇を通告してるんだ。もう30人以上が解雇されたようだ。理由はだれにもわからないし、次にだれが呼び出されるかもわからない。昼頃会議があって、そこで説明があるらしい」。 「クビになったのはだれとだれなんだ?」ダンに尋ねた。 「驚いたことに、4人のマネージャーのうち3人がクビになった。だから、もう上司はいないのさ。それに信じられないと思うが、リック・オーリッチオも解雇された」。 個人的には、ほとんどのマネージャーが無能だと思っていたので驚きはなかったが、リック・オーリッチオが解雇されたのはつらかった。リックはアップルIIチームの中でももっとも優秀なプログラマーだったからだ。一日二日で一週間分の仕事をしあげてしまい、残りの時間は最新のゲームなど自分の好きなことをしてすごすというやつだった。彼の仕事ぶりが問題になることは理解できるが、だからといって解雇理由になるものではない。彼はDOS 4.0開発では私のパートナーだ。この開発は始まったばかりで、私以外のプログラマーは仕事にかかっているので、この解雇はずいぶんと困ったことになる。 私も抜け殻のようになったみんなといっしょに、この事態の理由を説明するスコッティの言葉をぼうぜんと聞いていた。彼の説明はこうだった。アップルは昨年あまりにも急成長してしまい、誤った管理職を雇ってしまった。その人物がさらに無能な社員を次々と雇うという事態になった。そのため、アップルIIの開発チームはだれきってしまい、アップルの成功の礎である初期の情熱が失われている。だから刺激を与え、誤った雇用を正し、正しい方向に再び成長していきたいというのである。 スコッティは少し震え、自分でも確信がもてないように見えた。他の上級役員も横に並んでいたが、積極的に発言はしなかった。ウォズニアックもそこにいたが、とてもにこやかな表情とはいえなかった。会議の終わりの質疑応答で、二人の社員が事態の収拾の手際のまずさについてスコッティに質問をしたが、ほとんどの社員はどうしていいかわからず呆然としているだけだった。数日後には、だれもがこのできごとを「暗黒の水曜日」と呼び出した。 その日遅くなって、ディック・ヒューストンとこのことについて話し合った。ディックはディスク・コントローラー・カードのブートROMを書いた古株のプログラマーで、アップルの社内政治にも明るく、スコッティの友人でもあった。彼はこの追放劇が行われることを事前に知っていて、先週数回にわたってスコッティと会い、解雇予定者リストの作成まで手伝ったのだという。スコッティは、マイク・ママークラと役員会の承認を求めていたが、その承認はまだ降りず、それでも解雇を強行したのだとも教えてくれた。 アップルが昨年マネージャーなど無能な人間を雇ってしまったことは確かだが、スターリンまがいの追放は会社を運営していく上で妥当な方法だとは思えないと私はディックにいった。そして、リックの解雇について不満をいい、このことで私の気持ちがアップルから離れてしまったともいった。私は自分のしたことが正しいと信じるタイプのプログラマーであり、もうアップルに情熱をもてなくなってしまったのだ。 翌朝出社してみると、「面会したい」というマイク・スコットの秘書からのメモがデスクの上に置かれていた。ディックがスコッティに昨日の話を伝えてくれたのだろう。秘書に連絡を取り、1時間後にスコットの部屋を尋ねた。スコットはこの件で忙しく、私たちの会話は電話で何度も中断された。スコットは、この件で私が辞職するのではないかと考えており、職に留まってほしいといった。アップルの中でもう一度夢中になれる仕事はなにかと尋ねてきた。私は、バレルとバッドと共にマッキントッシュの開発をしたいという希望を告げた。 午後遅くなって、スコットの秘書が電話してきて、スティーブ・ジョブズとのアポを取り付けたと告げてきた。そのときは知らなかったが、スティーブはマッキントッシュプロジェクトを1月前から率いていた。スティーブは、このプロジェクトを立ち上げたジェフ・ラスキンを先日このプロジェクトから外した。ジェフがスティーブのリーダーシップに文句をいって去った後、その空き席にスティーブが座っている形だった。 アップルの人間はみなスティーブ・ジョブズを恐れていた。唐突に怒りを爆発させることや、思っていることを率直に相手にぶつけてしまうのが疎まれていたのだ。でも、私と数度会ったときは、ときどき見下すような態度をすることもあったが、おおむね好意的だった。マッキントッシュの仕事をすることについて、夢中になって話をしてしまった。 部屋に入って最初に聞かれたことはこうだった。「君はほんとうに仕事ができるのか?我々は有能な人間にマッキントッシュの仕事をしてもらいたいと思っている。君がほんとうに仕事ができるのかまだ確信できていない」。私はできると答え、能力もあるといった。バレルとは友達であり、彼のソフトウェア開発の仕事を何度か手伝ったことがあると説明した。 スティーブはいう。「君はクリエイティブなやつだと聞いている。ほんとうにそうなのか?」。 自分で判断することはできないが、マッキントッシュの仕事をしたいと願っており、いい仕事ができるはずだと答えた。スティーブは、この件については後で連絡するといった。 数時間経った午後4時半頃、私はアップルII用のDOS 4.0の仕事に戻っていた。インタラプト・ハンドラーやディスパッチャーなどのシステム用の基礎となるコードを書いていると、突然、スティーブ・ジョブズが私の仕事部屋の壁にもたれかかっていることに気がついた。 「いいニュースをもってきた」と彼はいう。「今からマッキントッシュチームで働いてもらう。ついてきてくれ。君の新しいデスクを教えてあげよう」。 「それは素晴らしい」私は答えた。「今かかっている仕事はあと一日二日で終わるので、月曜日からならマッキントッシュチームに合流できます」。 「なんの仕事をしてるんだって?マッキントッシュより大切な仕事があるっていうのか?」。 「アップルII用の新しいOS、DOS 4.0を書いています。だれかに引き継ぎができるところまでは仕上げてしまいたいのです」。 「そんなのは時間の無駄だ。だれがアップルIIなんか気にするものか。アップルIIはあと数年でゴミ箱行きだ。君のOSは完成する前に無意味な代物になってしまう。マッキントッシュはアップルの未来だ。今すぐこちらの仕事を始めるんだ」。 そういうと、スティーブは私のデスクに近寄ってきて、アップルIIの電源コードを見つけると、それを勢いよくソケットから引き抜いた。おかげで、マシンの電源は切れ、今までやった仕事はすべて消えてしまった。モニターのケーブルも抜き、マシンの上に重ねて抱えると、さっさと歩きはじめる。「ついてきてくれ。君の新しいデスクを教えてあげよう」。 外に出るとスティーブの銀色のベンツが止まっていて、私のコンピューターはトランクの中に収められた。そして、スティーブンス・クリークとサラトガ・サニーベールの交差点までの数ブロックを車で移動した。そこにはテキサコ・ステーションの隣にぱっとしない茶色の2階建ての建物があり、そこでスティーブがマッキントッシュの伝説を紡ぎあげていたのだ。 私たちは2階に上がり、鍵のかかっていないドアを開けた。スティーブは建物の裏側にあたる場所にあるデスクに私のコンピューターを置き、こういった。「ここが君のデスクだ。ようこそ、マッキントッシュチームへ!」。 仕事場を見回してみると、バレル・スミスとブライアン・ハワードが隣の部屋で、プロタイプのボードに接続したロジック・アナライザーのところにいた。彼らにことの顛末を話すと、二人はスティーブが私の能力について尋ねてきたと教えてくれた。二人は私が加わったことを喜んでくれた。 二人がしていたディスク診断ルーチンのデバッグ作業を少し手伝ってから、自分の新しいデスクに行き、引き出しを開けてみた。驚いたことに、中はだれかの備品でぎっしりだったのだ。いちばん下の引き出しなど、さまざまな模型飛行機やカメラの備品がつまっていた。後で知ったのだが、そこは元ジェフ・ラスキンのデスクで、彼は私物を整理する暇もなく去っていったのだった。 2004年 10月 02日
クフ王のピラミッドには円周率πが隠されているという話は有名だ。ここから、すでに古代エジプト人たちは円周率を利用していたとか、πを神秘的な数としてメッセージをピラミッドに組み込んだと主張する人たちがいるが、ほんとうはもっと単純なことなのだ。クフ王のピラミッドは高さ146.7m、一辺が230m。四辺の長さを高さの2倍で割ると円周率が求められるという。実際に計算してみると、確かに3.13565…となり、円周率の値に近くなる。しかし、これは神秘でもなんでもない。 エジプトでは、肘から中指の先までの長さを基準としたキューピッドという単位を使っていた。ものの長さを測るには当然、このキューピッドの物差しを使う。ところが、地面に長い線を引くときにはこのものさしは使わない。実際にやってみればわかるが、1mの棒で何回も次ぎながら100mを測定したら、かなり誤差が出てしまう。そこで、直径1キューピッドの車輪を作り、この車輪を転がして何回転するかで長さを測っていたのだ。 ピラミッドの一辺はもちろんこの車輪を使って長さを測りとる。積み上げる石の大きさは普通のキューピッドものさしで決める。こういった具合なので、高さと辺の長さの比をとれば円周率が現れるのだ。 < 前のページ次のページ >
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